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2025年12月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

01

 ねえねえねえねえ明日からさあクリスマスマーケットやるんだってこの駅で!
 ぐいと目前に押しつけられた恋人のスマートフォンが俺の見つめていた画面を遮断して、近すぎてむしろ見えない。勢い余った身体が太ももに転がる。つくづく犬のような恋人だ──うっかり口から出て詰るように喚かれたのも記憶に新しいにかかわらず、懲りずに思う。
「だーってだいちゃんこっち見てくんない。お互い残業なしで帰ってこれた華金なのに? 明日はデートなのに?」
 不満を訴えて足をばたつかせる恋人の、肩より上の位置で揃えられた髪を撫で下ろす。夕食に食べたハンバーグのソースがその口の端についてしまっている。
「明日どこに行こうか、俺も調べてた」
「え、ひひ、ほんと? うれしい……」
 目尻を弛めた彼女が、太腿のうえで笑顔をほころばせる。まるで心の底から喜んでくれているような表情がもうじゅうぶん潤っている胸にも新鮮に沁みる。彼女の苦痛になってやしないかと案じつつも、自身の高揚を押し付けてその熱をどうにか移したくて、身体を起こした彼女へ性急に口付けてしまうのだ。
「だいちゃんもお風呂入るよね、先に入る?」
「いいよ、お先にどうぞ」
「いっつも先に入ってるよわたし」
「入浴剤いりのお湯、好きだから。あなたのあとの方が俺は好き」
「じゃあわたしの使っていいから」
 追いかけてくる彼女から逃げるように、雨だからと朝部屋に干した洗濯物から、洗いたてのパジャマを取り込む。バスタオルも一緒に。
「行ってらっしゃい」
「……」
 引き攣らせるように彼女は唇を震わせて、結局何も発さずに背中は遠ざかっていく。皮が剥がれるように心なしか部屋がささやかに冷えていき、廊下の暗がりに小さな身体は溶けていく。

 二回の入浴分の湿気を吸った浴室に換気を回して、浴室で歌っていた歌の続きを思い出しながらリビングに続く扉を開ける。明かりががまぶしく思える。十数分前の彼女も同じ景色をたどったはずで
「だいちゃん」
 その彼女は頬を強ばらせている。
「だいちゃん、なにか怒ってるの?」
「どうしてそう思うの」
「だってその歌きらあい……」
「あなたも好きだったでしょう。引っ越したてのときはよく歌ってたから、俺も調べて覚えちゃった」
「でも」
「好きな子が歌ってる歌は覚えてしまうものだよ」
 家賃は二回すでに自分の口座から引き落とされていて、年が暮れる頃には三回目が落ちるだろう。
 憂いのない彼女であればこんなにも愛する羽目になっていたのか、彼女のほうも生活を共にするまで自分と関係を深めていたのか。もしもの話は実現しない限りは現実になることはない。俺はこの生活を、生まれて初めて天から与えられた安心として享受している。
「職場のお土産で金平糖をもらってきたんだよ。あなた好きでしょう。お茶も入れようか」
「だいちゃん……」
「どうしたの……大丈夫?」
 ──誰にも言わないでほしいの。
 ──付き合ってた女の子の首を絞めたの。
 ──誰にも見つかってないの。だいちゃんに初めて言ったの。
 昨日のことのようにその懺悔は耳にたやすく蘇る。罰されないということは許されないということだから。そうして誰も知らない、誰もわたしを裁かない場所でずっとずっと彼女を覚えていたいの。でもねだいちゃん。ひとは愚かだから、わたしひとりの記憶じゃいつか夢のように忘れて消えてしまうかもしれない。彼女の細い首の感触も、渾身の抵抗をする力の強さも、垂れ流しになる吐瀉物の匂いも。
 忘れてはいけないものというものがこの世には存在するわ。そのひとつひとつを、あんまりひとりでいると忘れてしまいそうなの。
 瞼の裏で思い出す彼女よりよっぽど感情を取り戻した彼女は、いま膝を抱えて頭をうずめて震えていた。暖房の温度を上げにソファを立つ。ひとりではいくらでも眠れない夜を越せてしまう彼女の、寝かしつけ役を申しでたのは紛れもなく自分の意志だった。
「そんなに刻まなくても、十分、覚えてるから……幸せに暮らして、ごめんなさい……」
 クリスマスをどうしてもひとりで過ごせないと取り乱した彼女を、毎年連れ出すと約束した。させられたのではなく、俺がそうしたくて交わしたのだ。
 わざわざ自分のあとをついてきたのにひとりで立てずに崩れてしまった彼女の身体を抱く。この現実が必然で良かったと、なおも胸が潤む感触に背を震わせながら。

ないない

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2025.10


潰れ散る花束さえも愛おしく心底胡散臭い幸福

土の中で三年眠ったゆめをみて雨降る日にしか泣けない蝉に

見てあげて、スタジオアリスで覚えた微笑を最後まであのひとは
ないない